クワズイモデザインルーム







ぼくらの家ができてから

夫婦対談「クワズイモのくらし」


(c)クワズイモデザインルーム 2007
All rights reserved.
コンテンツ上に掲載されている文章及び画像、写真等の著作権は全てクワズイモデザインルームに帰属するものです。 無断で複製他の媒体への転載は法律で禁じられています。

私は、2006年8月1日、第一子を妊娠9週で繋留流産、2007年8月13日、第二子を子宮内胎児死亡のため妊娠34週で死産しました。泣き声をあげることのなかった子どもに、もう一度会う旅を続けています。

«Prev |

2008年06月02日

とても揺れている。どうにもコントロールできない。怒りと悲しみの境目がわからない。外の暗闇と自分の中の暗闇が同化している。頭が痛い。

それは被害者意識のようなものかもしれない。でも、だれも、私に危害を加えていない。自分で自分をかわいそうだと思っているだけだ。これが私の弱さのひとつだ。

さあ、生活に戻らなければならない。

2008年05月14日

娘を妊娠していた時期のことや、出産してからのことをもっと具体的にいろいろ書こうと思っているのだけど、なかなかうまくいかない。仕方ないので、つなぎといってはなんだけど、どうしてこんなことをやっているのかを書こうと思う。

辛いことをわざわざ人に知らせて嫌がらせか、と、聞こえては来ないけどそんな声もあるかもしれない。私もできるなら楽しさだけをアウトプットして生きていきたいと思っている方だ。妊娠8カ月も終わりの頃、偶然ネットで見た「9カ月流産」というワードは、今も何となく視界の端にこびりつき、私を傷つける。にもかかわらず、ここでなにかを書いてみようと思ったのには、いくつかの理由がある。

一つ、このインターネットという世界で受けた大きな恩を返したいと思ったこと。日々入る芸能人のおめでたニュースも、友だちの朗報も、私から遠いところにある。私だってそっちの側の人間だったのだ。でも、今は圧倒的にこちら側にいる。そっちとこっちは、背中合わせだが完全に隔たっている。インターネットでは、こちら側の人たちを検索で探すことができる。現実的に便利だ。便利すぎて、知らなくてもいいことまで知ってしまい、不安を増やしたりもする。でも、私は同じ環境に置かれた人の言葉を、とにかく求めていた。それ以外には特に欲しいものがなかった。私よりもひどい条件を生き抜いてパソコンの前に座り、言葉を残してくれた人に、感謝したい。だから、私もきちんと残したい。

一つ、産後のいくつもの現実的で小さな疑問を、解決する場がなかったことに対する私なりの問題提起として。例えば、出産後、旅行など遠出できるようになるのはいつだろうか。山のようにヒットするサイトは、幸せな生活の大きな渦潮みたいなものだ。慣れない子育てだから体をいたわるようにとか、最近は大いに子づれで旅行できるようになったことの楽しさとか。今こうやって書いているだけでもめまいがする。私はただ、現実から逃れたくてどこかに旅行にでも行きたいなと思っただけなのだ。

一つ、私を心配してくれる人への私信の意味も大きい。いろいろ思って訪ねてくれる人に対して、弱さを見せるつもりはない。私はそんなに素直ではない。笑う。それがいいと本当に思う。だから、私の具体的な毎日をきちんと知っておきたいと思ってくれる人に、整理したことばで伝えたい。

一つ、私が表現の人間だということ。上手いか下手かということはこの際おいといて、そこをなしにしてやり過ごせない、そういう性分なのだ。

それから…。もっとある。また書いてみたい。

晴れている日は特に思う。家族連れが憂いなくまぶしく見えるせいかもしれない。雨の日はまた思う。理由は、特にない。

私は毎日強くなっていると思う。弱さを認めて、毎日強くなる。その先に、新しい命がもたらされる保証はない。ないが、それ以外に朝を迎える方法がわからない。

2008年01月24日

救われること。

後悔していないということ。もともと後でくよくよするのが嫌いな質というのもあるが、おおむね「こうすればよかった」と思うことがない。

私は、2003年に自宅で個人事務所を構えた。それまで昼も夜もなかった仕事のやり方を変え、私と夫の食生活をきちんと管理するためだ。いつか迎える新しい家族のために、十分な環境と時間を準備するためでもあった。もちろん、当時はこんなに大変な思いをするとは想像もつかなかったのだけど。

大体において大きな外的ストレスを回避しながら、私たちのペースで、きちんとひとつひとつ納得しながら、妊娠生活を送ることができた。今考えるとそこには、いくつもの偶然や幸運が含まれていた。

最初の妊娠からお世話になった近所の産婦人科や、死産がわかって救急車で運ばれた先の大きな病院でも、スタッフのみなさんに恵まれ、十分によくしていただいた。みなプロフェッショナルで専門分野に誇りを持ち、熱い気持ちを心に抱えておられた。私と夫と娘を十分に気遣い、適切で冷静な処置をしてくださったと思う。

そして、私と夫をとりまく人たちの、有言のはげましや無言の気遣いだ。人の言葉や表情のかすかな揺れにとても敏感になっていた私たちに、その人の人柄を感じさせるさまざまなやり方で声をかけてくださった。日常に、私と夫をそっと引き戻してくれた。これまでの30余年、築き上げてきた人間関係にひとかけらの間違いもなかったと、本当に何度も思った。

一番は、娘が顔を見せてくれたことだ。 今回のことはいろいろ調べたのだが未だ原因が見つからず、お腹の中での突発的な事故ではないかと言われている。そうなると、ことは5カ月にでも6カ月にでも起きた可能性があった。しかし、娘は運命を抱えて9ヵ月間私のお腹にとどまった。そして最後の力をふりしぼって私に陣痛を起こし、自然分娩をもたらした。このことは、後に先生方に驚かれた。誘発剤を使わず、しかもかなり短い時間でお産にこぎ着けた。

そして、娘が顔を見せてくれたことだ。 ふっくらとした手足。時間の経過とともに肌につやが出て、紅潮している。私に似て、強情そうな口元をへの字に曲げてぶすっとしている。今はただ、少し眠っているだけだ。そんな、夢のような、何というか、よろこび、のような。

娘が亡くなって5ヵ月、今は毎日私と夫をはげましてくれる。すごいやつだ。なんてすごい力を持っているんだ。

生活に娘の存在を感じる。すごく晴れていたのに突然大雨が降ったりするとき。白花豆がとても美味しくふくふくと煮上がったとき。絶妙のタイミングで愛用のコインパーキングが1台分空いたとき。夫はとりわけ月に魅入る。

私と夫は、娘に救われて生きている。

9カ月間、お腹の中で胎児を育てて、そのまま亡くなり、普通に産んだ。授乳の準備ができていたお乳を薬で止めた。そして何もなかったように夫婦二人の生活が戻ってきた。お骨を入れた真っ白の包みがそこにあることを除いて。

これは何なんだろう。私の身に起きたことが一体何だったのか、しばらく理解できなかった。

一人で食事をすること。テレビもラジオもつけずに無音でいること。好きな仕事に没頭すること。大きなお腹を抱えた女性や赤ん坊を連れた家族を景色の一部として眺めること。バスに乗ること。喫茶店でランチをとること。それまで何でもなかったことが苦痛になった。

楽しい予定をめいっぱい詰め込んだ休日の終わりに、夫と私に同時にすとんと降りてくる寂しさは殊の外きつい。それは昼の普通の沈黙ではない。助手席に座る夫にその寂しさが降りてきたことがわかる。好きな者二人でいて、とても寂しい。どうしようもない。なんとか部屋に灯をともし、お茶を沸かす。

一人でいること。二人でいること。寂しい。

「それは親になったってことよ」とある人が言った。昔から、人に寄りかからない孤高の人という印象のある人だ。子どもを新しい家庭に送り出して、気ままに暮らすその人が、そういう風に考えていることを知らなかった。

私は母親になり、そして、娘を亡くした。 そうか。そういうことか。

2008年01月01日

娘を亡くした。

8月15日のテレビで年老いた人が、戦争で亡くした家族のことを語り、それをまるで昨日のことのように感じると言った。私はそこに自分を重ねた。おばあさんになって、娘の死を昨日のことのように感じている日を思った。私はそのとき笑っているだろうか。

ずいぶん年をとったような気がした。もう昔の自分には戻れない。いやになるくらい使い古された言い回しだけど、もう無邪気な頃の自分には戻れない。大事な者の命が、前触れもなく、ふっと消えてしまった。そのことが、人間にそういう種類の絶望を与えることを知った。じっとりとしている。時が経つことに希望が持てなくなる。何に没頭してもどうせ実らない。

夫と私は、毎日「がんばろう」と口に出して過ごしている。私が弱っている日は夫が私をはげまし、夫が弱っている日は私が夫を励ます。それ以外の日は、じっとして踏み出せず怠けている自分を責める。静かで惨めな午後などに。

希望の8カ月と絶望の4カ月。2007年が終わった。

私にとって、ことばはいつも遊びの道具だった。おもしろおかしい遊びだ。だけどここでは、遊ばずに書こうと思う。どうにかして、またもう一度会うために、何かを書くべきではないかと思う。

«Prev |